Se2naのひとりごと

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第二回歴史上人物解説 ー松平 定信ー

こんにちは!Se2na(セツナ)です!!



前回から、かな~り間が空いてしまいましたが、今回は歴史上人物解説記事です!
前回の田沼意次編でも予告したように、今回は「松平 定信(まつだいら さだのぶ)」の解説記事です


記事の概要は前回とほとんど変わりません!


↓前回の記事 田沼意次編



将軍候補の松平定信!
1758年12月27日に生まれた松平 定信(生まれた時には徳川 賢丸〈とくがわ まさまる〉という名前)は江戸幕府の8代目将軍・徳川 吉宗(とくがわ よしむね)の次男、徳川 宗武(とくがわ むねたけ)の七男でした。
定信誕生の数年後、当時松平定信が住んでいた田安屋敷が消失したため、江戸城の本丸での居住を許されました。
当時、2,3歳の子供が江戸城の本丸での生活を許されるって結構すごいことですよね笑
ちなみに、幼いころ病弱だった松平定信は何度も病にかかり、6歳のときに危篤に陥ったりしているよ。


そして、この頃から聡明として知られていた松平定信は10代目将軍徳川 家治(とくがわ いえはる)の後継ぎとして江戸幕府将軍にもなるのでは?と一目を置かれていました。
ですが、当時は田沼時代で、政治の中心を担っていたのは田沼 意次(たぬま おきつぐ)で、その田沼意次を批判していた松平定信は田沼派から疎まれたいたので、あまり発言力は持っていませんでした。
そして、定信が15歳のときに定信は白河藩の藩主、松平 定邦(まつだいら さだくに)の養子に入りました。


この養子入りによって(ほかにも原因はあるとは思うけれど・・・)、定信の将軍ルートは絶たれたのです!


その後、白河藩の藩主となった定信でしたが、政治の実権を得ようとして、当時「賄賂政治家」として批判をしていた田沼意次に賄賂の話を持ち掛けたものの、意次に断られていたそうです。


いよいよ老中へ!


定信が白川藩主となってから数年たったころに、田沼意次失脚の要因の一つにもなった
天明の大飢饉が発生しました。

この大飢饉によって、定信の白河藩にも大きな打撃が発生しましたが、そこからの財政の立て直しに定信は力を注ぎました。
定信は幕政の立て直しに成功し、再び注目を浴びました。
その功績が徳川家の耳に入り、お声がかかりました。
そんなこともあり、少年期の第11代将軍・徳川 家斉(とくがわ いえなり)のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを期に幕府の重役から旧田沼派を一掃し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指していきました。

↑松平定信の肖像画



寛政の改革


いよいよはじまりました!
寛政の改革です!


松平定信が老中であった1787年~1793年にかけて行われた寛政の改革は江戸の三大改革(寛政の改革のほかに、享保の改革・天保の改革がある)のひとつにも数えられています。
定信の経済政策には、株仲間の専売制を廃止するなどの田沼政治に対して否定的な政策が多かったです。
他にも、当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙った旧里帰農令を出しましたが、強制力は無かったそうです。


定信はもともと飢饉からの立て直しが評価されて、老中になった人物でもあるため、飢饉への対策にも力を入れていました。
囲米(かこいまい)といって、藩や町村が米などの穀物をあらかじめ倉に貯蔵して万が一に備えておこうという制度には七分積金(しちぶつみきん)として、70%の積み立てを命じました。


また、学術にも通じていた定信は教育にも力を入れていきました。
昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)では朱子学(しゅしがく)以外の学問を禁じるなど、徹底した朱子学教育を進めていきました。
この朱子学は身分が上の人間を敬えというもので、当時の幕府にとって都合がよかったので、朱子学教育を進めていきました。



批判→失脚へと・・・


定信は知識人や学者の幕府への批判を禁じ、政治批判を禁止した海防学者の林 子平(はやし しへい)などが処罰されてしまいました。
さらに、贅沢を取り締まる倹約令(けんやくれい)や出版統制によって、人々の不満が高まっていきました。


さらに、外交では日本人漂流民の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を返還する際に北海道の根室(ねむろ)に来航し通商を求めてきたロシアの使節ラクスマンに対し、定信は即時の通商開始を拒絶していました。

↑根室の位置


こんなことが重なり、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄され、幕府のみならず様々な方面から批判が続出しました。
この白河は、白河藩出身の松平定信のことです。


松平定信は幕府の重役からの批判などで発言力が減少していき、1973年の7月23日についに、老中の座から辞職しました。



老中辞職後の定信の最期



老中失脚後の定信は、白河藩の藩政に専念しました。
収入の少なかった白河藩の財政を潤すなど、白河藩での政策では成功を収めました。
また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたみたいです。


そして、1829年の5月13日に72歳で死去しました。



松平定信の文才!


政治家として、活躍していた定信でしたが、多くの文を残していて、よく国語の古典文にも登場しますよね。
随筆の花月草紙(かげつそうし)や、自伝の宇下人言(うげのひとこと)などを残しています。
興味のある方は調べてみては?


まとめ


松平 定信は1758年に生まれ、白河藩藩主だった定信は飢饉のときに死者を出さず、財政の建て直しも素晴らしいとして、江戸幕府老中へ。
老中になってからは、囲米、旧里帰農令などの飢饉対策や、株仲間の解散、倹約令などの経済政策を実施。
これは後に完成の改革と呼ばれるように。
学問や思想、出版・言論への厳しい統制から批判を浴びて、老中を失脚。
その後は白河藩の政治に従事し、1829年にその人生に幕を閉じた。
白河藩での政治では名君といわれたが、老中としての政治は賛否がわかれるような人物です!



おわりに
ここまで、読んでくれた皆さん本当にありがとうございました!
内容について、補足・訂正等がありましたら、コメント、ツイッター(ID:@Se2na1)に寄せてくれると嬉しいです( *´艸`)

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